介護

荒木由美子さんはお姑さんを20年間介護した

誰にでも親がいるという当たり前のことを再認識することがあります 。

それは有名人の介護体験を聞いた時。

テレビの向こうにいる華やかな人達も、自分と同じく親の介護体験をしているのだと知った時。

辛い思いをしながら介護を頑張っているんだと知った時。

自分だけじゃないと知った時。

心が落ち着きます。

何故なら、介護は孤独で誰にでも褒めてもらえない行い。

親なんだから、子供なんだから介護して当然だと、暗黙の了解みたいに思われていますが、介護している当人にとってはストレスがたまる作業なんです。

でもあんなに華やかに笑顔で活躍しているとたちも、 家に帰ると親の介護と向き合っているのかと思うと、自分にも力が湧いてくるんです。

今回は

荒木由美子さんはお姑さんを20年間介護した

と題して、

そんな介護を20年間にわたって体験した有名人の一人である、荒木由美子さんのことを書いてみようと思います。

結婚と同時に20年の義母介護が始まった荒木由美子さん

歌手の湯原正明さんと結婚後、荒木由美子さんは芸能界を引退しました。

新婚生活を味わう暇もなく、結婚2週間後に義母が入院したのです。

そしてその日から荒木さんは、長きにわたる介護を余儀なくされたのでした。

結婚したら夫の家族も自分の家族

義母の病状はその後認知症へと進行していきました。

荒木さんは、実に、およそ20年にわたって介護と子育ての日々を送ることになったのです。

包容力のある夫と優しい義母。

周りからは新婚で同居するの?と心配する声も聞こえたといいます。

でも、「結婚をしたら夫の家族も自分の家族」

夫を育ててくれたお母さんを、夫共々に大事にしようと荒木由美子さんは、心に決めて湯原さんの元に嫁いだのでした。

妻・嫁・母の三役をどのようにして乗り切った?

 

結婚2週間後に姑が入院。

その日から荒木由美子さんの介護実践が始まりました。

妻・嫁・母と、いくつもの役目をこなしながらの日々に、どのように荒木さんは 介護生活を乗り切ったのでしょうか?

荒木さんはそのころの事を述懐して、次のように発言しています。

「介護は人生の中で一番難しいことでした、と発言しています。

頑張らない覚悟も必要だし、でも頑張る覚悟がないと続けてはいけないです。

正直なことを言いますと、介護の最中の時はどこまでも続くトンネルに、途方に暮れることもありました。

でもあの経験があったから今幸せの意味が分かります。

今日一日一日の介護をして明日のことは明日考えればいい。

荒木さんはこのように心に決めていたのだそうです」

義母の猛烈な不機嫌と猜疑心

介護生活の始まりは義母の猛烈な不機嫌だったようです。

例えば、荒木さんが「おばあちゃんお茶飲む?」と聞いても「お茶なんかいらない」と理由もなく怒る。

用事を済ませて慌てて帰宅をすると、ぶらぶらどこに行ってるのと責める。

それまでは由美子さんの食事でなければ嫌だと言っていた義母が、食事を作っても食べないのです。

そしてついに義母は自分で惣菜を買ってくるようになったそうです。

荒木さんは、その時は認知症が始まっていると全く気づかずに、「私の何が気に入らないんだろう」とただ悲しい気持ちでいっぱいになったそうです。

夫には相談できない

夫に話して、その思いを軽くすれば良かったのかもしれません。

けれど忙しい夫に、そんなことは言えませんと荒木さんはジレンマに陥ります。

夫にとっては大事な母親です。

悪口を聞きたくないに違いないと荒木さんは思ったそうです。

私も義母と実母が認知症なので、このことが痛いほどわかります。

認知症の人は、認知症と病名はついていますが、一見普通なんです。

むしろ、他の人には介護しているこちらが偏見を持っているとか、虐めていると取られかねません。

夫の母なんだから、夫に話そうという気にはなれないんですね。

本当に認知症の初期は、みんな疑心暗鬼となり苦しんでいます。

壮絶な介護生活

夫の湯原さんは、母親の様子に心を痛めていました。

時に義母を叱りつけることもありましたが、しかしそのたびに荒木さんは「私はいいから喧嘩をしないで」とお願いしたのだそうです。

最初は嫁と姑のよくある世界にも見えた二人の関係の中で、荒木さんはそのうちに、お母さんはどこかおかしい。

と、 何か感じるようになりました。

義母は、そのうちに、

「お金がない」とか「物がなくなった」

とか言うようになり、これは明らかにおかしいと荒木さんは思い始めたのでした。

そんな時に主治医から、これは認知症の始まりかもしれませんよ、と告知されたのです。

その当時は認知症っていう言葉もなかった時代でした。

果たして、検査の結果は「認知症」と診断されたのです。

認知症の診断と前後して義母はお金使いが荒くなり、男性に対する態度も変わりました。

そんな義母の様子に幼稚園に通う幼い息子もおばあちゃんがおかしいと怯えるようになったのでした。

息子は次第におばあちゃんと一緒に食事をしたくないと言い出すようになり、家庭はトゲトゲしい雰囲気に包まれました。

いくら認知症だから仕方がないと、割り切らなきゃいけないと分かっていても辛い。

義母は、徘徊妄想を繰り返すようになっていきました。

手を繋ぐと安心していた

段々に、お姑さんは、いつでも荒木さんを探すようになって、荒木さんが見えないと心配するようになりました。

そこで、できるだけ手をつないでいるようにし手上げたら安心した様子です。

手をさすって「大丈夫よここにいるよ」と声をかける。

手を繋いでみて分かったのですが、お年寄りの手って独特の柔らかさと温もりがあるんです。

しわしわなんだけどふわふわしている。

顔を見ないで手だけを触ると憎しみが消えるんです。

もう嫌と思う時もあの手の温もりを感じると私はまだ大丈夫と思った、と荒木さんは述懐しています。

不思議ですよね。人のぬくもりって。

このままじゃ、みんなダメになる

私は以前に、湯原さんがテレビで奥様の由美子さんに感謝していると、泣いていたのを見たことがあります。

結婚して、たった二週間で若い奥様がお姑さんを介護するなんて、するほうもそうですが、させるほうの湯原さんも、どんなにつらかったことでしょう。

でも、荒木由美子さんって、現役で仕事しているときもそうでしたが、笑顔の素敵な明るい女性でしたよね。

きっと、介護もあの笑顔でニコニコ穏やかに不満ひとつ言わずにしていたことでしょう。

ご主人からすれば、自分の親だからどうしようもなく、悪いと思っていたようです。

自宅での介護がおよそ7年続きましたが、 義母を施設へという選択肢は荒木さんにはなかったようです。

とにかく自宅で介護をしようと奮闘しました。

しかし、その思いは自身の体の不調で途切れたのです。

最初はごそっと髪が抜け、そして胃痙攣手の震え。

泣くつもりはないのに涙が溢れてくる自律神経失調症を患ってしまったのです。

笑顔を絶やさず頑張っていても、体は正直に音を上げていたのです。

フォローしようと考える夫も様子を見守る息子も疲れ果てて家から笑いが消えたとき、このままじゃみんなダメになると心からそう思ったそうです。

これ以上は家族で介護をするのは難しい。

設備の整った専門病院か福祉施設で母を見てもらおうと湯原さんが言いました。

在宅介護から介護施設での介護へと移ったのです。

 

亡くなる日に、お姑さんは、はいつものようにバイバイと手を降りさよならしたそうです。

その様子は弱々しく、まるでもういいよ充分に見てもらったからあとは好きなことをやりなさいと言ってるようにも感じられたと、荒木さんは述懐しています。

最後に

木由美子さんはお姑さんを20年間介護した

本当にどんなに大変な思いをなさったことでしょう。

ご主人の湯原さんがどれほど奥様に感謝しているのか、想像するだけで胸が熱くなります。

私も認知症の義母を介護して、今年見送ったので、荒木さんの長きにわたった介護が、どんなに大変なものだったか分かります。

荒木さんのお姑さんは、荒木さんを娘のように可愛がっていたそうです。

そんな人だから、荒木さんも応えてあげようと思ったのでしょうね。

それでは今回はこの辺で失礼します。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。